講演会報告「里山から見える未来社会」

「里山から見える未来社会」~経済資本主義から自然資本主義への道のり~

澁澤寿一氏講演 

 

講演概要

 現代の私たちの生活に重要な役割を果たしているマネー資本主義経済の原型は、明治時代に西欧より導入され、1960年代までには、自給自足経済が続いていた日本の山間地も、ほぼこの資本主義経済が普及することとなった。一方、自給自足経済は、自然界の毎年の動植物が増殖する余剰分を恵みとして生かしてもらう生活で、それは縄文時代から何千年もずっと続いて来たもの。私たち自身が実際に生きていくためには、自然界の成長量の余剰分の恵みなしでは、生きてゆけないが、現在のマネー資本主義経済は、自然界の成長量どころか、成長の元本の自然界そのものすら消費してしまう勢い。

不良債権ですら、リスク証券として、金融商品化されるようなお金がお金を増殖する、マネー資本主義経済は、完全なバーチャルもので、私たちが、純粋に労働して得られる実体経済の70倍から100倍と言われる。

 しかし、これは、実体のないものなので、私たちの生存に不可欠な自然資源の元本を食いつぶした時点で、私たちの生存そのものが成り立たなくなることに。

このため、江戸時代に世界でも類をみない、高度化されたリサイクル経済や、1960年代まで続いた、200年以上先の10世代先の子孫への気遣いをする里山の自給自足の生き方を見直す必要に迫られている。

私たちが日常の当たり前の風景と感じている都市環境の世界、つまり首都圏や、大都市の毎日当たり前と思っている通勤生活すら、莫大なエネルギーを注いて、作り上げた、云わばバーチャルな世界のため、自然災害等あれば、いつ崩れ去るか判らない風景。

 

 西洋資本主義経済を取り入れた澁澤栄一は、江戸時代に生まれ、厳しい士農工商の身分差別の息苦しさにあえぎながらも、経済について交渉するときは、身分分け隔てなく対等に語ることができたことが、心のささえ、いきがいになっていたらしい。

 一方、自給自足経済の農山村では、常に共同体の存続が主体となり、「個」の人の意志というものが尊重なおざりになりがち。そのため、お金さえ出せば「個≒プライバシー」が尊重され、干渉されない、都市に流出する若者は、現代でも跡をたたない状況。

 いずれも、他者に侵されない自らの内なる尊厳(講演資料では「神性」と表現)を自らによって認めようとせず、他者から認めてもらおうとする、もがきのように感じられる。

 

 講演者は、おくゆかしいためか「私たちはどこからきてどこにいくのか?」「求めていた青い鳥は身近にある」といった時空を超えた、誰もが、一生自らに問い続ける課題については、講演資料の片隅にさりげなく掲載するにとどめている。そのかわり、都市社会が確立した無縁社会(=プライバシー)と、行き過ぎると煩わしいけど、ほどほどだとありがたい自給自足の里山の集落の地縁社会を対比させている。そして「ありがたさ」と「煩わしさ」の絶妙な「間」が如何に大事であるかを語ることで、このテーマについては、簡単に終わらせている。

 一方、バーチャルなマネー経済が、もはや成り立たなくなることが明らかになり、さらに人工知能の出現で、現在日本で行われているマネー経済偏重の義務教育は、生きていく上で、あまり役に立たないのではないかとの指摘。

 今でも、山村に住む80代ぐらいの年寄りは「山さえあれば生きてゆける」という。こうした山で生きる年寄りたちは、義務教育は、小学校しか出ていないという人も多い。この人たちが山で生きていく知恵は、別に学校で学んだわけではない。

 これからは、子どもたちや、1960年代までの自給自足社会の体験が無い、私たちが、この生きていくすべを学ぶ必要があろう。

 

以下やや詳細な講演内容

 

澁澤寿一氏はあの有名な澁澤栄一の曾孫(以下「澁澤氏」)。

今回澁澤氏は里山資本主義の講演となるが、実は、澁澤栄一は、里山資本主義とは、対極のいわゆる「マネー資本主義」の原型を明治維新の日本に導入した開祖のような存在。

曾祖父澁澤栄一氏(以下「栄一」)は、明治維新の後、産業を導入したことで有名な人で、埼玉北部の出身。

 栄一が生まれ育ったのは、江戸時代の日本で、そこには、士農工商の身分制度があった。栄一は、この差別がきらいであった。しかし身分差別があったと言えどもの経済の世界の話になると、この士農工商に関係なく、対等に話をすることができた。そこに栄一が資本主義に惹きつけられる何かがあったらしい。

 

 この当時の江戸の町は、隅田川や江戸川で、水がきれいで、鮎や白魚が採れ食べることができた。その話を聴いた、子どものころの澁澤氏が過ごした東京では、すでに多摩川の汚染がひどかったので、信じられない話であった。江戸時代と同時期のフランスでは、河川の汚染がひどく、セーヌ川など、家庭排水、糞尿などが、そのまま川に垂れ流された結果、河床に汚泥が堆積して、硫化水素などが発生したようだ。このため、セーヌ川で船が添付した際、おぼれた人々が、川底から発生したガス中毒で多数死亡するといった惨事があったという。

 

 これに対して、江戸の町は、150万人と、当時は世界でも有数の大都市ながら糞尿・家庭排水など、完全に肥料等に再利用するような、完全リサイクル型の町であったため、河川の汚濁も無かったようだ。リサイクル業は町の主力産業にもなっていたようで、古着屋は480軒や、古道具屋が3900軒もあったという。

 

 当時の在日大使のハリスの私的な記録文書をみると、江戸の人々は、子どもたちは、家があまり裕福そうでなくとも、相互扶助は行き届いて、みな肥っていて、満ち足りたような表情をしていると述べている。

 このような、江戸時代の庶民の子どもたちと比べ現代の子どもたちは、物質的に豊かではあるが、果たしてこのように満ち足りた表情を浮かべているものだろうか(江戸時代の子どもの集合写真あり)。

 子育てにおいても、江戸末期や明治の初め、日本を訪問した外国人は、日本人の男性が、皆子育てをしていることに驚いたようだ。

 

 また、明治時代の初め、日本国内を旅行したイザベラバードも、日本人は、貴族階級でない庶民ですら、他人に仕事を請け負った際、仕事を果たすことに対して「責任」という概念を持っているので、驚嘆している。「責任」という概念は、西欧社会では貴族階級以上の支配階級が持つもので庶民には無いとされていた。

 

ちなみに、江戸時代は、町の行政を司る機関は、北町奉行と、南町奉行、今の東京都庁、裁判所、警視庁を兼ねた組織で、メンバーはわずか50人であり、町の治安の良さと、町の人々の協力が手厚かったことを物語っている。

 

 栄一の跡を引き継いだ澁澤敬三氏は、のちに、大蔵大臣もつとめ、戦後の日本の財閥解体にも立ち会ったが、講演者の渋沢さんも小学生のころ、敬三氏は、まだご存命で、おじいさんの栄一についても、「じいさんは、資本主義というえらいものを持ち込んだ」と感想を述べている。「えらいもの」の意味は、大変面倒なものという意味もあるようだ。

 資本主義の根幹は、先ほどの欧州貴族社会や、江戸庶民の「責任」と「信用」の二つでなりたつものといわれる。

 

 一方、最近ダボス会議で、自分の勤め先の会社と政府がどの程度信用できるか、アンケートを取ったところ、会社は38%、政府は29%と回答があった。これは資本主義が成立することが困難な状況に追い込まれていることを端的に示しているのかもしれない。

 

また、私たちは、縄文時代から、ほんの50年前まで、自然の生産力の余剰分で生活していた。

 近江商人の一家言として、「自分良し、相手良し、世間良し」の三方良しがあり、この世間良しは、自然界などの人間界以外の動植物や天象、海、山々など森羅万象良しという意味あり、世界が安定して、はじめて、商売も成り立ち、子々孫々まで繁栄することを端的に示しているのだろう。

 ところが、現代社会の在り方の問題点は、この世界=自然の生産力の余剰だけではなく、余剰を生み出す元本の自然資源を切り崩してまで、豊かさを享受している点にある。

 豊かさは、自然資源が無くてはならないが、その元本は有限であるため、現在のまま消費生活を続けると、例えば、日本人のような生活を世界中の人々は行うと、あと地球が

2.9個無くてはならないといった問題が生じる。

 

 私たちの生活は、一応1960年代まで、(有史の中では)、縄文時代より続く、自給自足の生活を何万年も続けて、それからわずか50年程度で、現在のようなマネー資本主義に変容してしまった。

 

 このマネー資本主義は、1990年代からさらに変容し、ウオール街のお金では、「マネーゲーム」の天才達により、お金がお金を生むシステムが開発された。所謂、資本の回収が困難と考えられる不良債権も「リスク証券」として、金融商品化され、盛んに売買されるという信じがたい現象となる。そして、2008年のリーマンショックの影響はあるものの、現在では、マネー資本主義の総資産は、実態経済の70倍から100倍といわれる。

 

最近の世界の長者番付けでは、世界のトップ26人の資産家の総資産は、38億人に匹敵するとのこと。このトップ26人は、どうやってこのような資産を築いたか、もちろん、モノづくりではなく、お金がお金を生むシステムで築いたのだろう。

 

このような、実態のない、マネーゲームのお金と、地道なサービス(モノづくりも含めて)により稼いだお金が、果たして、同じ価値を持つと言って良いのだろうか?

 

こうした、不公平感は、トランプ現象や不公平感となって、いま世界中に噴き出しているように見える。

 

 ・教育のこれから

                                                            

 aこれからの子どもたちの65%は大人になったら、現在無い職業についている

     キャッシーデビットソン氏(ニューヨーク市立大学大学院センター教授)

 b今後10年から20年程度で、約47%の仕事が自動化される可能性が高い。

     マイケルAオズボーン氏(オックスフォード大学准教授)

 C 2030年までには、週15時間程度働けば済むようになる。

     ジョン・メイナード・ケインズ氏(経済学者)

こうしたことから、これまでの義務教育は、これがあれば最低文化的な生活ができるというもの。しかし今後それが保障できなくなった現在、義務教育も見直さざるを得ない状況。

 

・里山の世界

 そこで、子どもたちに生きてゆける教育をするため、この義務教育が見直される前に、過疎地域のお年寄りたちに子どもが聴いてレポートする「聞き書き」が、すでに様々な団体により、先進的に、実施されている。

 1960年頃まで、里山で自給自足の体験をした年配の者は、「自分たちは、山さえあれば、稼げなくとも、生きられる。」と語る。ここで、「稼ぐ」とは、現金を得ることである。

 一方、この時代まで、生きることとは仕事をすることであった。

 この「仕事」とは、「稼ぐ」とは違い、お金にならない、生きるための作業のことをいう。

 火おこし、縄ない、食事の支度などの家事全般や、薪集めなど、生活に必要な資源を山から得る仕事、など、集落での共同作業(水路の補修など)多岐にわたっている。

 

 

澁澤さんによれば、同じ過疎地帯でも、都心に近い過疎の町では生きてゆけないが、同じ過疎地帯でも自然豊かな地域なら生きてゆけるとのこと。

 この点、飯能は自然資源が豊かなため、里山として生きていくことは可能とのこと。

 

 ・江戸時代の林業の在り方

 現在山村で残っている植林は、250年以上前に植えられたものも存在する。台風などで村が大災害を受け、復旧など緊急の出費の際、合議をして伐採してきたようだ。250年以上というと、一世代30年として、9世代近くになると考えられる。ちなみに北米インディアンは、7世代先を考えて自然資源を利用したと云われ、この点江戸時代の山村でも同様の保全思想が護られていたと考えられる。

  

・地域にお金が落ちるとは?~集落の経済~

 

 地域で、需要の高い燃料や、食料などの物品やサービスを地域外から調達すると、それらと引き換えに、地域から現金が出てゆくだけである。しかし、地域内で調達すると、それが、現金は地域に還元される。例えば、需給調査では年間日本人がパン食で出費する平均額は1万円とのこと。これが1000人の集落で、集落内でパンを調達すれば、年間の売り上げは1000万円となり、パン屋が2,3軒は、集落で経営できる、つまりパン屋を目指す比較的年代の若い夫婦が2,3組集落に移住できることを意味する。

 しかし、パンをヤマザキパンなど大手から購入する場合は、現金は、すべて集落の外(地域外)に出て行ってしまい、若い夫婦の移住も無くなるということ。

 

 

 

 

 ・秋田県の鵜養集落の例

 

秋田県は、江戸時代の天明天保の大飢饉で、餓死者を大量に出している。

江戸時代の有名な紀行作家菅江真澄は、その惨状を伝えているが、何故か餓死者が数百年間で一人もでない集落があった。 その集落は、現在70戸ほどで、人口は250人程度、田んぼのほか、栗林を一家族1ha所有していた。栗の収穫量を調べてみると2年に一度の生り年で、年間生産量を365日で、一家族の人数10人で割ると、一日あたりの一人分カロリー計算を算出したところ、1500キロカロリーという数字になった。この数字は人一人が摂取して、一日生きていくことができるカロリーである。

  ちなみに、鵜養集落では、薪炭用の広葉樹も34年周期の輪伐可能な法正林として、萌芽更新が行われている。

 

 

 ・木質バイオマス(里山資本主義の草分けとなる岡山県真庭市の取り組み)

真庭市は、飯能市の4.3倍、東京23区の1.3倍の面積をもつ、人口44000人の平成の広域合併で成立した町。澁澤さんが真庭市を訪れた時、渋澤さんに、山を是非貰ってくれという人々が跡を絶たなかった。

 現在は、木質バイオマスを利用して、町のエネルギーの32%を自給している。

 製材所で、排出される木屑を燃料に転用することで、年間の木屑処理費が浮くほか、発電で収益になり、実質、処理代がなくなることから、、木質バイオマスの総収入は年間30億円となっている。

 澁澤さんは、観光業に携わっていたこともあることから、観光業で地域にお金を還元するためには、還元するお金の10倍規模の事業費を投資する必要があるという。真庭市の場合は、木質バイオマス事業だけで、300億円規模の観光事業に匹敵することになる。

木質バイオマスの特徴は、太陽光や、水力発電エネルギーと異なり、木材の伐採から、加工まで、沢山の人々が関わり合ってはじめてマキやペレットとして、人々の手元に届くものである。これはかなり煩わしいものかもしれない。しかし、生産過程で、集落の人々がつながり合うためにはうってつけの資材といえる。

 

 

 ・トヨタ自動車の従業員のこれから

  日本の国策の代表格のような自動車産業も、もはや、自動車そのものの良さで収益をあげているのでは無く、内実に関わらず、為替レートの差額のみで、収益を得ている有様である。このため、終身雇用の代表のようなトヨタ自動車も、すべての従業員を週休5日雇用することは困難になり、今後、週休3日、週休4日になるという。トヨタ自動車は会社員も副業が解禁になったことを受け、トヨタ従業員も休日は、山村で農林業などに従事して、生活の資源を得るための教育プログラムも導入しているとのこと

 

 ・3.11以降の地方に移住する若者の動向

 2011年の東北大震災以降、過疎地に移住して、農業や、他の事業で生計を立てる若い人が増えてきた。これは、都市で無理に生計を立てようとすると、家族や子どもに会う時間がほとんどなくなる、といった、都市特有の「無縁社会」と、震災により、常に都市には食料や生活用品が存在するといった幻想が崩されたことに依るからかもしれない。

 

 ・現代でも山村から都市に流出する若者~ありがたさと

 現代でも、秋田県の山村など、地方から都市に流出する若者は少なくない。

都市に出てきた若い人にその理由を聞くと、集落では若い人の行動は集落の大人にみられると、逐一集落の大人全員に共有化される、個人のプライバシーというものが無いというのが原因らしい。

 

 ・「煩わしさ」と「有り難さ」の合間

 渋澤さんは、この集落の大人が、若い人に気を配る際、若い人が「煩わしさ」を感じるか「有り難さ」を感じるか、この合間が最も大事だという。渋澤さんや、渋澤さんと同世代の人が、若いころ地方の集落から都市に流出した動機は、集落の「煩わしさ」であったようだ。そして、この世代の人々が、1960年代以前の縄文社会から続いてきた自然資源を保続する思想の日本社会が、煩わしさの無い、利便性一番の社会に変容するよう、ひたすら突っ走るさきがけとなっていた。

 渋澤さんは、自分たちの世代の働きで、却ってこれからの若い世代に、生きていく場を狭めてしまったことは、本当に申し訳ないと思うと云っている。

 

 ・飯能市民からの質問と回答

 

質問者1 自営業者の親を持ち、自分が跡を継ぐ予定の30代後半の男性

Q これからの時代は、マネー資本主義のみに依存する生き方からの脱却が必要なことは判った。しかし、まだ不安なので、既存の考え方に依存してしまっている。どうやって、親の跡を引き継ぎ経営できるだろうか?

 

A (先方の説明と当方の聴き取りが不明瞭)

  事業は、仲間が5人もいれば十分立派にやっていける。良き協力者を得ることが必要。

  

  質問2 小学生の子どもを持つ、1960年代生まれの母親

  Q 自分は、まさに、1960年代生まれなので、これまでの里山資源で自給自足していた生活から、マネー資本主義に大きく変容する時代の分かれ目に生まれ育った。このため、子どもたちには、机に向かう勉強一辺倒で接して来た。しかし、義務教育の考え方も見直されるとのこと。自分の子どもに、これから何を教えて良いか判らない。

 A 子どもたちと一緒に何を学べば良いか、考えていく方向が望ましいと思う。大人は、何を学べば確実に生きていけるというものを教えることができないから。

 

 ・講演会の感想

 

 「山さえあれば生きられる」という山村に住む古老たちの言葉について

確かに、その通りだが、現在の日本の多くの山は、スギヒノキなどの住宅建材目的の

人工林すなわち、マネー経済重視の山がほとんどで、生物多様性はほとんどないと思われる。これは「生きていける山」とは程遠い、このため、山に住む大型哺乳類も、林縁の生物多様性のある、里山に頻繁に出没して、かろうじて食料を得ている状況ではないだろうか。これから私たちが、子孫10代先のことを考えて、生きてゆける山に戻していくことが大きな課題と感じる。

 

 講演で、行き過ぎたマネー資本主義は実体経済の70倍から100倍という。つまり現在の世界トップの富豪たちも、いわゆるバブルで儲けたもので、実体が無いものだと理解した。このため、同じ額のお金でも、そのお金の稼ぎ方によって、お金の「燃費」が全く異なるのではないかと感じる。  

お金は一種のエネルギーなので、私たちの生活の中で、このお金の出どころ使い方を見直すことで、少ないお金でも、慎ましく生きていくことは可能ではないだろうか?

 

 

以上